先日『超かぐや姫!』のコンセプトアートが公開されました。

その中にある次の画像を見て欲しいです。

「Cosmic Princess Kaguya! / 超かぐや姫!」より3枚のコンセプトアートを抜粋。1枚目「ツクヨミの水面下に廃墟がある画像」2枚目「桟橋の足下を荒波が覆う画像」3枚目「桟橋の上まで高波が覆う画像」
「Cosmic Princess Kaguya! / 超かぐや姫!」より3枚のコンセプトアートを抜粋

ツクヨミの桟橋の下には壊れた信号機や自動車が水没しており、荒波が北斎の浮世絵の様に表現されています。これらのコンセプトアートは本編のEDにも登場しますが、本編内にこの描写は一切ありません。

つまり、採用されなかったボツ案です。

では、ただのボツ案がわざわざEDで公開された理由は何でしょうか。それは、本作における重要な要素が何か含まれているからではないでしょうか。

その視点から、これらの設定を少し考えてみようと思います。

ツクヨミが作られた理由

ツクヨミの制作者はヤチヨです。本編ではさらりと流していますが、ツクヨミを作る過程は小説に詳細があります。

8000年前に飛ばされたかぐやはウミウシの身体でしか行動できず、ただひたすらに人々の死を見届けていました。怪我や病気、飢饉や災害で映画よりも簡単に人は死に、いつの時代も戦争は絶えず人間同士で殺し合う。生まれては消えていく命を見つめながら、次第にかぐやの心は擦り切れていきます。

しかも、彩葉と再会できる保証はどこにもありません。次第に彩葉と過ごした時代の記憶すらも朧げになり始める頃、それでも消えずに残っていたものは、歌と、約束と、彩葉への思いでした。

そんなかぐやの大きな転換点がインターネットの誕生です。この技術がより進歩し、自身の本体であるタケノコこと「もと光る竹」を直接ネットに接続出来れば、より多くのことが出来るようになるかもしれません。

そして、一筋の閃きが生まれます。

 そうだ、いつか仮想世界の大きな広場を作りたい、みんなが好きなことをして、殺し合うこともなく、誰も孤独にならず、いつでも返事をもらえる場所。
 そうだ、名前は――ハッとした。
 ・・・・・・バカだったなぁ。何で今まで気付かなかったんだろう。――私が、ヤチヨになるんだ。この世界はきっと何度も、これを繰り返していたんだ。
 それと同時に、自分が必ず彩葉と再会できることを、確信した。ほんの、あと何十年の間に。ウミウシのちっぽけな心臓が高鳴った。

小説「超かぐや姫!」p.295-296より

ここで整理しておきたいのは「みんなのために仮想世界を作ろう!」と閃いてから、ヤチヨの正体に気がつき、彩葉との再会を確信した点です。

1.「みんなが楽しく過ごせる場所を作りたい」という願い
2.「ヤチヨの正体に気がつき、ツクヨミを作る」という決意
3.「いつかツクヨミで彩葉と再会できる」という希望

これらを自覚して初めて、かぐやはヤチヨになりました。

そして、正倉院に保管されていたタケノコを奪取し、インターネットでの活動とツクヨミの制作を開始します。

現世と常世

現世(うつしよ)とは、私たちが生きている現実世界のことです。

常世(とこよ)とは、現世とは異なる永遠の理想郷であり、死者や神々が暮らす異界のことです。

古来より、海の彼方や海の底、地の底や森の奥など、人里離れた場所には現世とは性質の違う異界が存在し、死者や神々が暮らしていると考えられていました。そのような異界を常世(常夜)や幽世(かくりよ)と言います。

海の神が暮らす綿津見国(わたつみのくに)や死者が暮らす黄泉つ国(よもつくに)など、あるいは『浦島太郎』の「竜宮城」が分かりやすいかもしれません。

本作では「ツクヨミ」が常世として描かれていることは間違いないと思います。そもそも『竹取物語』では「月」が常世なので、月人のヤチヨが作る仮想世界がその性質を帯びるのは必然です。作中で「月とツクヨミが似ている」という話しが出ますが、「電子世界であり、かつ常世である」というところにも共通項が見受けられます。

さて、かぐやがツクヨミに初ログインしてアバターを選択するシーン。

『超かぐや姫! 公式ガイドブック ハッピーエンドのその先へ!』p.38より、ツクヨミ入口のイラストボード。かぐやとヤチヨが向かい合い、左右には鳥居、周囲の水面には灯籠がたくさん浮かんでいる。
超かぐや姫!公式ガイドブックp.38より ツクヨミの入口のイラストボード

ここは現世と常世の狭間です。背後の鳥居は現世へ、眼前の鳥居は常世へ繋がっています。周囲の水面には灯籠が漂いますが、その光景に私は息を飲む思いでした。

一般的に「灯籠流し」は死者を弔う行為です。灯籠の灯りは死者があの世(常世)へ迷わず辿り着くための道しるべであり、その輝きは死者の魂そのものでもあります。

水平線の彼方まで漂う灯籠は、それだけの死者をヤチヨが見届けてきたと解するべきです。

現世に介入出来ず、常世に帰ることも出来ず、その狭間でずっと死にゆく者たちを見届けたヤチヨの心象風景が、この空間に表現されています。

ここがツクヨミの入口というのも興味深いです。ツクヨミではユーザーを「八百万の神」としていますが、現世から常世の身体(アバター)になることで、人は神(常世の住人)になれるという構造になっています。また、住人は誰もが表現者という世界なので、「クリエイター = 神」という文脈での二重構造にもなっています。この辺りの設定は凄く巧いなあと感じました。

では、ツクヨミが常世であるならば、ヤチヨが灯籠で導いた死者たちはどこにいるのでしょうか?

コンセプトアートで描こうとしたもの

繰り返しますが、ヤチヨはみんなが楽しく過ごせる場所を願ってツクヨミを作りました。

誰も殺し合って欲しくない。
誰も孤独になって欲しくない。

そんな理想郷を目指したからこそ、街には光と彩と音が溢れ、いつも賑やかで、いつも笑顔が溢れています。そしてきっと、その願いは弔い続けた死者の魂も例外ではないと思うのです。

改めて、ツクヨミのコンセプトアートを見直します。

「Cosmic Princess Kaguya! / 超かぐや姫!」より3枚のコンセプトアートを抜粋。1枚目「ツクヨミの水面下に廃墟がある画像」2枚目「桟橋の足下を荒波が覆う画像」3枚目「桟橋の上まで高波が覆う画像」
「Cosmic Princess Kaguya! / 超かぐや姫!」より3枚のコンセプトアートを抜粋

水没した廃墟。一面の荒波。建物を優に超える高波。

現代日本人なら十中八九、東日本大震災を連想しませんか?

私はしました。しかし、本編では採用されずに一切描写されていません。描写する必要はない、ことさら東日本大震災を強調する必要はない、と制作陣は判断したのだと思われます。

最初のヤチヨライブ、「星降る海」のシーン。

【本編ライブシーン】星降る海より 1:34辺り。大鳥居の周辺には複数の鳥居が水没している。
【本編ライブシーン】星降る海より 1:34辺り

大鳥居の周辺には水没した複数の鳥居が確認出来ます。無秩序な配置から予想するに、おそらくコンセプトアートの名残です。ライブ会場の照明光源として機能させていますが、原案では水没した廃墟がそこにあったのではないでしょうか。

水没した廃墟の上に鳥居が立ち、ヤチヨが死者と神々に祈りの歌と踊りを披露する。

まるで鎮魂の祭祀のようです。

神楽を強くイメージしている気がしますが、そもそも、アイドルや芸能の源流を辿れば巫女の神事や天鈿女命(あめのうずめのみこと)へ回帰するので、ヤチヨのライブはそれの超現代版と言えるのかもしれません。

ライブの序盤、会場の周囲には淡い光源が漂っていますが、その動きは完全に人魂のソレです。

【本編ライブシーン】星降る海より 0:05~0:10辺り

ライブが盛り上がる中盤に差し掛かると人魂たちは消えて、たくさんの海洋生物たちが集まってきます。そして、ライブが終わると同時にいなくなります。

ただのライブの演出です。

でも私には、あの日、海に散って行き場を亡くした人々が、歌声に導かれて集まってきたかのように見えました。ツクヨミの空や海を漂う海洋生物こそが、ヤチヨが灯籠を流し続けた死者の魂だと私は考えています。形のない魂に魚という身体を与えることで、彼らは常世の住人になれるのです。

彼らは瞬きをしたり、涙を流したり、どことなく意思を感じさせる作りになっています。システム的には空間やライブ会場を演出するプログラム、あるいは自立型AIなのでしょうが、いつも楽しそうに見えるのは私の気のせいでしょうか。

幾千の時を巡って今
僕ら出会えたの
ほら 見失わないように
手を離さないで

ねぇ耳を澄ませて
星の降る音が聞こえるでしょう?
もっと近くに来て
誰も知らない世界が待ってるの

手を取って 踊りましょう
はじまりの合図鳴らせば
唄おう la-la-la-!!
響け la-la-la-!!
暗がりの道も月明かりが照らすの

宙、海の匂い きみに届くかな
距離なんてないのかな
どんな時もきっとどこかで
見守っているからさ
ほら くしゃくしゃになって笑う日を
集めて紡いで 未来へ踏み出す先も
きみと心震わせて

叶うさ 今 物語を巡ろう

ライブ「星降る海」の歌詞文字起こし

「星降る海」の歌詞は、「この世界で、誰も一人になんてさせないから、みんな集まっておいで、一緒に唄おう、一緒に踊ろう」という内容です。ヤチヨの表情も曲調もライブの演出も、全てがポジティブな明るい雰囲気で構成されています。

視聴者が最初に見るライブは作劇的な観点からも、作品の世界観を理解してもらうために強い印象を与えなければいけません。圧倒的な映像美と歌唱力で「この世界は楽しい」「何だかワクワクする」といったポジティブな感情がここでは必要になります。

だからこそ、東日本大震災を想起させるような、ネガティブに通じる描写は全てカットしたのだと思います。微かにエッセンスが残っている気はしますが、

「今、それ(東日本大震災)は本題ではない。むしろ邪魔」

というのが制作陣の考えではないでしょうか。それがこのコンセプトアートに対する個人的な見解です。

その上で、採用しなかったアイデアをEDで公開した理由は、そこに制作陣の哲学や想いがあるからではないでしょうか。「描かなかった = 存在しない」ではないと思うのです。

『超かぐや姫!』が描かなかったもの

『超かぐや姫!』の舞台は2030年であり、それは戦争も大災害もすでに乗り越えた先の未来の物語です。彩葉は東日本大震災後に生まれました。すでに大きな困難を乗り越えた世界で「生きることの喜び」を問うた作品だと私は受け止めています。

だからこそ、本作における東日本大震災の描き方、と言うよりも「描かなかった」という選択肢は、結構凄いことだと考えています。大震災後の創作を評価する上で一考の余地があると思いませんか?

私もあらゆる作品を見たわけではないので無知を承知で書きます。

東日本大震災の発生は2011年。

あの時代、理不尽としか言いようのない大災害を生き延びた私たちには支えが必要でした。それを創作に求め、創作もそれに応えてきたと思います。『ray(2014年)』をEDテーマに選曲している時点で、大震災の扱いを考慮していない訳がありません。

私も当時、彩瀬まるさんの本が好きで『暗い夜、星を数えて:3・11被災鉄道からの脱出(2012年)』や『やがて海へと届く(2016年)』を読んで、涙していたことを覚えています。

映像作品としては『シン・ゴジラ(2016年)』、『君の名は(2016年)』、『この世界の片隅に(2016年)』の影響が大きかったでしょうか。いずれも大震災を直接描いた訳ではありませんが、大震災を経験したからこそ、より情緒に訴えかけるものがありました。個人的には『けものフレンズ(2017年)』も強く印象に残っています。

そして、『すずめの戸締まり(2022年)』でようやく直接的に大震災が描写されました。当時も賛否両論ありましたが、10年の月日を経たことで概ね受け入れられたと思います。アレが2016年に公開されていたら、とてもではないですが私は耐えられませんでした。

大きな困難を前にして、「自分が生き延びた意味って何だろう」とか、「大切な人を失った気持ちとどう向き合えばいいんだろう」とか、「これからの未来をどうやって生きていけばいいんだろう」など、もやもやした感情を整理するために、創作が果たした役割はとても大きかったと思います。

しかしながら、『超かぐや姫!』はそこに主題を置きません。

あの大震災の記憶すら背景描写のひとつとしたのです。なおかつ、大震災どころか人類史全ての悲しみを背負う存在としてヤチヨを描きました。

彩葉がヤチヨの8000年の記憶を見るシーン、頑なに、人の死を描写しないんですよね。その時代の人々の生きた表情や街並みを見せることで、その裏にある死と、連綿と続く未来を連想させる構成になっています。唯一、空襲と災害(たぶん阪神淡路か東日本)の画が一瞬表示されますが、あくまでサブリミナル効果を狙ったものに過ぎません。

第2次世界大戦の悲劇的なカットすら、本編では描写せずにMVに回しました。

【Official MV】ray 超かぐや姫!Versionより 1:48辺り。焼け野原を背景に絶望した表情のかぐや。
【Official MV】ray 超かぐや姫!Versionより 1:48辺り

8000年の回想シーンで原爆が落ちるカットや街が津波に呑み込まれるカットを一瞬差し込むだけで、人類史の悲惨さやヤチヨの想いを強調することは簡単に出来るんですよ。でも、本作では頑なにそういう描写を省いています。物語の分かりやすさを犠牲にしてまでも、貫き通したい何かがあるのです。

この徹底ぶりは本作を評価する上で決して無視出来ません。

2026年の現在、この作品が生まれたことを私は喜ばしく思っています。大震災後の多くの作品は、影を強く見せた上でそれを照らす光に希望を見出してきました。でも、本作は逆のアプローチになっていて、光を強く見せた上で背後にある影に気付かせる構造になっています。そしておそらく、その影の濃さは視聴者によってかなりの揺れ幅があるのではないでしょうか。

私にとってその影は、東日本大震災の記憶でした。

これ、言語化するのすっごく難しいのですが、自分にとって、2011年で世界は一度途切れているんですよね。あの日を境に、死生観や未来に対する希望とか、日々の生活とか、色々な価値観がひっくり返ってしまい、今までと同じ暮らしでも同じ世界に生きてはいませんでした。それが良きにつけ悪しきにつけ、小さな古傷として大震災の記憶が残り続けていたことは間違いありません。

本作では、いつの時代も懸命に生きた人たちがいました。彼らとの出会いと別れを繰り返しながら、8000年生き続けたヤチヨという存在に私は心打たれたのです。その歴史の背後には数え切れないほどの悲劇があったはずです。それでも、ヤチヨは笑っていました。

第2次世界大戦のとき、ようやく発展してきた文明が焼け野原に変わった瞬間、どんな想いで街を眺めていたのでしょうか。それでも戦後の復興を遂げ、インターネットが発明され、ツクヨミの製作もあと少し、彩葉に会えるのもあと少し、というところで発生した東日本大震災。どんな想いで街を眺めていたのでしょうか。津波に流される人々を救うことも出来ず、どんな想いで死者のために歌を唄っていたのでしょうか。

希望を失った時もあったはずです。絶望に心が押しつぶされた時もあったはずです。人類に愛想を尽かしても、おかしくなかったはずです。それでも、ヤチヨは人類を、そして彩葉を愛し続けてくれました。死んでいった者たちをずっと、ずっと弔い続けてくれました。

その事が何だか無性に、私は嬉しかったのです。

自分の中で途切れていた世界が繋がったような気がしました。戦争があろうが、大震災があろうが、8000年人類の歴史が続いたこと、ヤチヨの記憶の中で笑顔でいられたこと、そしてきっと、これからの未来も笑顔でいられること。それが何だか無性に、私は嬉しかったのです。

ヤチヨは人類にとって神様のような存在になりました。その上で、

「じゃあ、その神様は誰が救うの?」

という答えを『超かぐや姫!』は見事に描き切りました。EDの「生きるのは最高だ」の歌詞に涙したのは私だけではないはずです。その涙の理由は、2014年と2026年の今では意味合いが違うように思われます。東日本大震災から15年が経過した今だからこそ、未来に向けて「生きるのは最高だ!」と叫び出したい気分でした。

そこにこそ、『超かぐや姫!』という作品が貫き通した何かが、あるのではないでしょうか。