『超かぐや姫!』の作画がスゴい!

と、よく言われていますが、具体的に何が良かったのか? 劇場公開から3か月が経ち、なお熱量冷めやらぬ本作の感想のひとつとして、ここに書き残しておこうと思います。

なお、私はそこら辺にいる書店員なので、アニメが本職ではない点はご承知ください。とんちんかんなことを書くかもしれませんが、何卒よろしくお願いいたします。

初見時に意表を突かれた作画シーン

超かぐや姫!』を初めて観たときに「作画がスゴい!」と最初に強く感じたのは、彩葉たちの下校シーンで靴のアップが描写されるところでした。

『超かぐや姫!』0:17:31~辺り、女子校生3人の下校シーン。歩行時の足下がスゴい作画で描かれている。
『超かぐや姫!』0:17:31~辺りから

「え? 何、今の。今の作画ヤバくなかった!?」

そんな感じで、この一瞬の描写には意表を突かれました。こんなにも丁寧に「歩く女子校生たちの足下」を描く意味が分かりません。本編が始まってから感じていた高品質な作画の良さと、このシーンのそれには明確な違いを感じました。こだわりが、一段階も二段階も違うように思います。

作劇的には放課後へ場面転換するシーンです。彩葉たちが雑談しながらカフェへ移動しますが、そのためにわざわざこの描写を入れる理由が見当たりません。下駄箱辺りで芦花と真実に「彩葉、一緒に帰ろ~」とでも言わせればそれで十分なのです。

でも、ここでは表情もセリフもなしに、足下だけを信じられないくらい丁寧に描いています。変な言い方ですが、アニメなのに実写より実写してるんですよ、このカット。

『超かぐや姫!』の作画がスゴい!と言われる所以は、こういうところにもあると私は思っています。

アクションやライブのような派手に美しく魅せる作画ではなく、そこにキャラクターが実在していると実感できるような生きた作画です。ここでは表情もセリフも必要ありません。画面の構図や色使い、そして本来的な意味でのアニメーションを最大限活用して、表現したいものを作画に込めています。

では、このシーンでは何が表現されているのでしょうか。

歩調が合った3人の歩き方からは仲の良さを感じることができますし、学生らしい賑やかさもあります。良好な関係性が表現されつつ、柔らかい木漏れ日の明るさは授業から解放された自由な放課後をも連想させます。このカットを挟むことで、友人と過ごす時間が彩葉に安らぎを与えていることをスムーズに理解できるはずです。(でも、内心は宇宙人が邪魔して心穏やかではないし、実際に邪魔される)

さて、ここでかぐやの登場ですが、ほんの少し前のシーンでかぐやの足下も描写されており、これらは対比関係の構図になっています。

『超かぐや姫!』0:17:20~辺り、学校にやって来たかぐやの足下が映されるシーン。スニーカーで走り込んで来ている。
『超かぐや姫!』0:17:20~辺りから

かぐやは左(下手)へ走り、彩葉たちは右(上手)へ歩いています。動き回って落ち着きのないかぐやと、歩調を合わせて穏やかに歩く彩葉たち、その対比関係をアニメーションの違いで描写しているわけです。

また、色の塗り方も違います。かぐやは色の境界がくっきりとしたアニメ塗りですが、彩葉たちはぼかしやグラデーションまで使ってかなり繊細に描写されています。彩葉と芦花の地面に落ちる影を見比べて欲しいです。輪郭のシャープさが違うんですよ。これ、最初は光の回折かと思いましたが、おそらくカメラのピント差です。中央の彩葉にピントが合っているので、周縁の芦花と真実がぼやけているのだと思います。いずれにせよ、作画の違いのみで、かぐやの非現実性と彩葉たちの現実性が互いに強調される構図となっています。

初めてこのシーンを観たとき、驚きと同時に「あ、作画にめっちゃ情報詰め込むタイプの作品だ」と感じて、より画面に集中するようになりました。作劇的にも、かぐやが勝手に行動を始めて物語が一気に進む頃合いですから、視聴者の意識を誘導する目的もあったように感じます。

いやまあ、この記事のために改めてじっくり見直しましたが、やっぱりここの作画おかしいですよ。

とんでもないものを見せられていると感じた作画シーン

かぐやがライバー活動を開始して彩葉にキーボードを弾いてもらうシーン、初めて観たときは理解が追いつかず、もの凄く戸惑いました。詳細までは掴み切れなかったけれど、とんでもないものを見せられていることだけは直感的に理解できたからです。

このシーン、情報が・・・情報が多すぎるのです・・・ッ!!

『超かぐや姫!』0:38:25~辺り、かぐやにせがまれて彩葉がキーボードを弾くシーン。
『超かぐや姫!』0:38:25~辺りから

個人的にはここが全編通して一番好きなシーンです。『超かぐや姫!』の全てが詰まっていると言っても過言ではないと思っています。この演奏シーンでは、作品の方向性や物語の軸が濃密に描写されています。ただし、作画や音楽を中心とした言語化されない表現なので、初見でその全てを把握することはかなり難しいです。本編を見終わった後にこのシーンを見返すと、その意図するところが見えてくると思います。

このシーンは次のような構成です。ここで描写されている内容を少し詳しく見てみようと思います。

1.かぐやが演奏を催促する
2.彩葉のトラウマが開示される
3.それでも彩葉は演奏する
4.もう一度、かぐやが演奏を催促する
5.もう一度、彩葉が演奏する

1. かぐやが演奏を催促する(彩葉の顔に影が差す)

最初に注目したいのは、彩葉がキーボードに気がついた時点で顔に影が差す描写があることです。

『超かぐや姫!』0:36:54~辺り、キーボードを見つけた彩葉の顔に影が差す。
『超かぐや姫!』0:36:54~辺りから

以後、この演奏シーンでは常に彩葉の顔に影が差しています。

この後にトラウマが開示されるので、この作画は作為的なものと見て間違いありません。このシーンでは部屋の間取りと立ち位置を利用して、光と影でキャラクターの感情を表現しています。あまりにも自然な描写なので、注意深く作画の意図を読み取らないとキャラクターの感情が見えてきません。

2. 彩葉のトラウマが開示される(影の正体)

トラウマが開示されると、幸せだった頃の彩葉の顔には光が差していることが分かります。

『超かぐや姫!』0:37:26~辺り、父親が存命で幸せだった頃の彩葉の表情は明るい。
『超かぐや姫!』0:37:26~辺りから

ただ、この表現手法は別に珍しいものではなくて、もの凄くありきたりなものです。その上で「本作は光と影の作画がスゴい!」という話しは後ほどしたいと思います。このシーンで重要なのは、授業中のピアノは問題ないのに、どうして今はトラウマが発動したのか、という点です。

彩葉が抱えている問題点がどこにあるのか?

この作品の根幹部分である彩葉の感情をどこまで掘り下げられるかが、このシーンの肝です。

彩葉は父親から「音楽は自由に楽しむもの」と教わりますが、母親には「やるなら勝ちに行け」と否定されています。ゆえに、音楽が父親の死と母親の否定を想起させてトラウマが呼び起こされる、と考えてしまいそうですが、それだと授業では問題なくピアノを弾ける理由が見つかりません。

どうしてトラウマが呼び起こされたのか、そこにはふたつの原因があると私は考えています。

ひとつは、「父親との思い出のキーボード」から母親の言葉を思い出してしまったことが原因です。父親との楽しい日々は死によって奪われ、さらに母親から否定されたことで幼い彩葉は深く傷つきました。キーボードを押し入れに仕舞い込み、過去から目を逸らしていたのは母親の言葉を思い出したくなかったからです。

けれど、彩葉が捻くれているところは、母親に否定されて傷ついてもなお、心の奥底では母親に認められたいと願っているので、知らず知らずの内に母親の言葉を肯定しているところにあります。進路の話しをした際に「そんな才能ないよ」と発言していますが、それは中途半端な自分では本気で取り組む人に到底叶わないと考えているからです。この自信の無さと諦めの早さは、母親の影響及び呪いであり、彩葉の人格を理解する上でかなり重要になります。

そして今、母親に認められたい彩葉にとっては「学業」こそが全力で取り組むべき課題です。だから、成績に直結する授業では問題なくピアノが弾けるのでしょう。音楽を「自由に楽しむもの」ではなく、課題や義務にすり替えることで母親の言葉から目を逸らしているのです。そして、そのことに彩葉自身が気付いていません。そこが、彩葉の抱える最大の問題点ではないでしょうか。

さて、トラウマが呼び起こされたもうひとつの原因、それは「かぐやの表情に幼い頃の自分を見た」からだと私は考えています。

3. それでも彩葉は演奏する(彩葉はかぐやを裏切れない)

彩葉にとって、遊びで演奏することは母親に否定された苦しい過去の出来事です。父親との楽しかった記憶すら、そのトラウマを思い出してしまうので自ら隠して目を逸らしていました。しかし、そんな複雑な心境なんてかぐやには関係ありません。ただただ、無邪気にキラキラした目で期待のまなざしを向けています。

『超かぐや姫!』0:37:45~辺り、キラキラした瞳で彩葉の演奏を待つかぐや。
『超かぐや姫!』0:37:45~辺り

ここからのシーン、影の中にいる彩葉とは対称的に、かぐやは日に照らされて光り輝いています。目の前のキラキラしたかぐやは、父親と無邪気に音楽を楽しんでいた彩葉自身に他なりません。その表情を見て、幼い頃の楽しかった感情と、苦しかった感情、その両方を彩葉は思い出しました。

そして、もう、ここからが、捻くれ彩葉の真骨頂だと思うのですが、かぐやのその期待を彩葉は裏切ることができません。なぜなら、母親と同じように過去の自分を否定することになってしまうからです。普段はかぐやに対してあれこれと口酸っぱく言う彩葉ですが、自分の苦しみをかぐやに押しつけられるほど意地悪な人間ではないのです。

4. もう一度、かぐやが演奏を催促する(光り輝く姫)

「いろいろ、中途半端にはできるんだけどね」

彩葉のそのセリフは、裏を返せば全力で音楽に取り組めなかった自分を卑下する言葉です。あるいは、「自由に楽しむ音楽」を捨てきれなかった自分をうっすら自覚しているのかもしれません。(あるいはここで自覚した)

そんな彩葉の表情をちょっと不思議そうに見つめてから、かぐやはにんまりと笑い、もう一度演奏して欲しいと催促します。その輝かしい笑顔は、光り輝く姫、かぐや姫の名に相応しい表情です。

『超かぐや姫!』0:38:13~辺り、彩葉の表情を見てにんまりと笑うかぐや。
『超かぐや姫!』0:38:13~辺りから

ここの表情が本当に素晴らしいです!

セリフがないので何を考えているのか正確なところは分かりません。けれども、この後かぐやの一言で彩葉は迷いなく演奏を始めます。そのどこか嬉し恥ずかしそうな表情と淀みない音楽から、彩葉の心が救われたことが伝わるのではないでしょうか。彩葉は、母親にも同じ表情をして欲しかったのではないでしょうか。

「何か影を抱えている彩葉をかぐやの光が照らす」という物語の構図が、ここで見えてきます。

5. もう一度、彩葉が演奏する(彩葉の顔に光が差す)

ここの演奏シーンはガチでスゴいです。ここまで感情を美しく表現する作品はなかなかお目にかかれません。一切のセリフを挟まない、作画と音楽だけの表現です。

語り始めたらもう止まらないので、要点だけを残して私の感想は控えようと思います。作中屈指の名シーンです。ぜひ皆さんも、描かれていない部分に想像を広げてみて欲しいです。

1.演奏直前の彩葉の顔は見えません(どんな表情してる?
2.演奏中の彩葉の表情は四段階で変化しています(伏し目がち→かぐやを見る→照れくさそう→?
3.ニッコニコなかぐやは光に照らされています(どんな感情?
4.彩葉はまだ影の中にいます(ほんとに?
5.視点が横から上に変わるのはなぜでしょう(何が見えなくなる?

さて、これだけ感動的な演出をしておきながら最高に面白いのが、演奏後の彩葉は相変わらず影の中から出てこないし、かぐやに心を開かない捻くれ野郎というところです。

『超かぐや姫!』0:38:28~辺り、部屋の外から彩葉とかぐやを俯瞰しているシーン。ふたりの間には壁がある。
『超かぐや姫!』0:38:28~辺りから

上記のシーンでは中央の窓枠が彩葉の心の壁を表現しており、ふたりの間に距離があることを示しています。かぐやのテリトリーは雑多で賑やかな印象ですが、彩葉のテリトリーはどこか寂しげな印象が感じられます。この壁の変化こそが本作の方向性であり、物語の軸となる部分です。(立ち上がるかぐやを座った彩葉が見上げる構図、どこか見覚えがありますね?

本作では、画面の構図や作画による感情表現が随所に見られます。だからこそ、キャラクターを理解する上で見えている部分だけを追いかけていると感情が迷子になりがちです。キャラクターたちが隠しているものを探し出すところに、本作の面白さが詰まっていると私は解釈しています。

一例を少しだけ紹介します。

①カフェでパンケーキを奢られるシーン。彩葉だけが影の中にいて、背後の壁は奥が見えるようで見えません。一番親しい友人にすら、彩葉は心を開いていません。(どうして心を閉ざしている?

②海水浴でかぐやが彩葉におねだりするシーン。かぐやの背後に遮るものは何もなくて全てが見通せます。かぐやは一切の隠し事をしていません。ここのセリフは全て本心です。(どこから本心を隠す?

③彩葉がかぐやに看病されるシーン。キーボードに半分だけ光が差しています。だいぶ心を開いてきたけど、まだ半分です。(完全に心を開くのはいつ?

④ヤチヨカップ終了後にヤチヨと会話するシーン。ヤチヨの背後はまぶしくて、何も見えません。ヤチヨはいつも適当なことを言っています。(なにを隠している?

『超かぐや姫!』は光と影の作画がスゴい!

「光明が差す」という言葉もありますが、光と影を用いた感情表現は視覚的にも分かりやすいので、ここまで見てきたように本作でも様々な場面で使われています。物事がプラスの方向に動いたときには光が差し込み、マイナスの方向に動いたときには影が差し込む表現です。アニメに限らず広く一般的な表現かと思います。

ですが、本作ではいくつか「ん?」と感じるところがありました。例えば帝との2on1の戦闘シーン。

『超かぐや姫!』1:07:33~辺り、かぐやが満面の笑みで「だが勝つ!」と言うシーン。逆光なので顔には影がかかっている。
『超かぐや姫!』1:07:33~辺りから

劣勢な戦況の中、かぐやはものすごく楽しそうな声で「だが勝つ!」と彩葉に微笑みます。ポジティブな感情が溢れるシーンですが、かぐやの顔には影が差しています。一方で、このセリフを受けた彩葉の顔には光が差し込みます。ここでは光と影で感情をそのまま表現しているわけではなさそうです。

帝との戦闘シーンは夕陽が差し込む円形の舞台です。次々に立ち位置が入れ替わるので、光と影の描写も入れ替わります。そして入れ替わる度に、その表現しているものが変化していると私は考えています。挑戦者と王者の関係性、戦況の優劣、帝(本気)と彩葉(遊び)の対比、勝敗の可能性などなど、考え始めたら色々な解釈ができるシーンではないでしょうか。

この戦闘におけるかぐやの役割を考えてみると、武器の入れ替えというアイデアを持ちながらも、それを実行する策を持っていない状況です。メタ的な視点で言えば、かぐやがどれだけがんばっても帝に勝つ可能性は0%です。そして、本気で戦う兄に敵うわけがないと彩葉は考えています。自信の無さと諦めの早さは、彩葉が抱える影です。

さて、視点を入れ替えてみましょう。

彩葉から見て、勝ち筋の見えないかぐやは影の中にいますが、かぐやから見て、彩葉はどう見えているのでしょうか。このシーンの光と影の描き方、スゴく上手いなと私は思いました。そんなの最初から、彩葉の顔はキラキラと輝いて見えていたに決まっています。かぐやは最初から、戦いの勝ち負けよりも彩葉と一緒に遊べることに喜びを見出していたはずです。

以上は、作画から読み取った私個人の解釈です。

『超かぐや姫!』は言語化されていない部分が非常に多い作品なので、視聴者の数だけ解釈が存在すると思います。けれども、考える材料は豊富に用意されています。この記事では作画に注目しましたが、他にも入口はたくさんあるはずです。本編を観ていて、おや?と思ったところには、きっと何か仕掛けがあるのかもしれません。そんなときはぜひ、思考をフル回転させながら、本編を見返してみてください。何か新しい発見があるかもしれません。